台湾企業を取材することになり、10社すべてに同じ質問(なぜ台湾製品は安いのか)をぶつけてみた。答えは、台湾では他人と同じものを作らない、というビジネスマインドが強く働いているからだった。
当時日本は、A社がヒット商品を飛ばすと、B社も負けずに同じものを出してきた。このためいずれは価格競争に陥っていた。台湾は違う。A社がヒット商品を出せば、B社はその商品に欠かせない部品や、A社のヒット商品を同時に補完しながら使う製品などを開発した。決してA社と同じ製品は作らない。だから中小の企業同士が補完しあうサプライチェーンが出来上がり、個々の企業は大量生産できた。だから安い、と取材した10社が10社とも同じような答えを返してきたのである。
日本は韓国や台湾が安い製品を出してくると人件費が安いから、と見下すような見方をしてきた。実際、日本の半導体経営者に、なぜパソコン用の安いDRAMを作らないのかを聞いてみたが、安売り競争に巻き込まれたくない、という返事だった。今になって思うと、低コスト技術を持っていないため、高価なコストで縮こまっていくメインフレーム市場向け高価なDRAMを作っていただけにすぎなかった。
タモリさんの弔辞は以下の通り。
「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」
次の日にパートナーに買ってきてもらおう、、などと考えていると次の日はパートナーもろともダウンして食べるものない、、という状態になります。
重たいのでネットスーパーじゃないと大変。
常備しているものもあるけど列挙すると下記のような感じ。
熱が下がって食欲が回復するまで食べるのは果物のみです。
食欲が無い時は無理して食べない。水分補給と睡眠に徹する。
食欲はあるときは、、
1 700ccのだしに、水溶き片栗粉大さじ1を溶いて沸騰させる
2 沸騰したところに溶き卵を細く流す
3 1cm幅に刻んだニラを入れて火を止める
煮込んであることと、ささみベースの出汁なので油分が少ないので消化に良いです。
じゃがいもを入れて炭水化物も取れるのでスープのみで食事になる。
「天才だね」は理科の先生が口癖にしていた言葉で、理科の授業中は、クラスの誰もが「天才」で、問題に正解しようが間違えようが、あるいは口ごもった時にだって「君は天才なんだから」とおだてられ、とにかく自分の考えかたを口にできれば、先生からは「君は天才だね」のお墨付をもらえるのが常だった。
(中略)
小学生の昔、日能研で理科を教えていたあの先生が配布していた「天才だね」という文言は、あれはネットなんてなかった昔の「いいね!」 だったのだろうと思う。
塾にはもちろん定期テストがあって、試験の順位は公開されて、「天才」の称号なんてただの挨拶みたいなものではあったのだけれど、試験勉強をする必要もなく、そもそも試験を待つまでもなく手に入る「天才」の称賛に、自分はずいぶん舞い上がり、そのうち本当に理科ばっかり得意な子供になった。